シイタケの話(一)

 最近は中国産におされ気味のシイタケも、まだまだ食用きのこの代表選手ではある。 さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。最も古いのは、1223年に道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、「典座教訓」に載っている(シイタケではなく、桑の実であるという説もある)。その後は1465年の日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが載っていたり、節用集(当時の辞典、1495年)に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。これ以後は料理材料としてありふれたものになるのに、なぜだろうか?

 シイタケは珍しいきのこではないから、古くから食べられていたのだろう。しかし生シイタケの状態では、マツタケやヒラタケのように、他のきのこに比較してきわだった香りや形の特徴があるとは言えない。このため一つの種としての全国的な認識が生まれなかったのかもしれない。その後、乾シイタケにして食べる方法が普及するにつれ、独特の香りから、シイタケの地位が向上することになったのではないかと思う。実は乾シイタケの料理法は、中国から伝わったのかもしれない。

 その中国では、既に「王禎農書」(1313年)に香蕈の栽培法が載っている。「日陰の場所を選び、楓(フウ)、楮(カジノキ)、栲(シイ)などの木を伐り、斧で傷をつけ、土をかけて置く。数年できのこが発生する。…。」また、榾木を槌で叩いてきのこを発生させる手法も既にあった(「驚蕈」と呼んでいた)。この記述と同様のものが、日本の農業全書(1697年)にも載っている。ただし古くから栽培技術が開発された中国よりも、日本の方がシイタケ栽培が盛んになっていった。佐藤成裕の五瑞編(1796年)には詳しい栽培法が載っており、当時の栽培方法をうかがい知ることができる。シデ、コナラ、クヌギの原木に鉈目を入れて温湿度を管理し、自然にシイタケ菌が原木につくのを待つという方法であり、浸水打木、火力乾燥法についても詳しく載っている。

 兎園小説という江戸時代の書物に日本のシイタケ栽培草創期の話がある。伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた。14歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり、30年近くたった。ある日豊後の岡という所から25両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。重蔵は豊後で、シイタケの栽培法を教えたところ、国益になるということで、領主の召し抱えになった。毎年70両の金を賜り、岡の岳山というところで、大きな家を建て、だんだん成功し、三百余人の召使いがいるまでになった。毎日シイタケを作り、串に刺して焼いて、大坂に出し、春と秋とで2万両も取る財産家になったという。

 ちなみに大分県では、豊後の源兵衛という炭焼きが、炭にする木に鉈目を入れたまま山に放置したところ、シイタケがその木から発生し、シイタケ栽培法を開発したということになっている。この鉈目栽培法は半世紀前まで行われていた栽培法である。